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人によっては「夏かし」と呼ばれているものです。

映画、小説「悪人」のタイトルに関する違和感について

小説「悪人」(吉田修一朝日文庫)を読みました。モントリオール世界映画祭で、深津絵里さんが最優秀女優賞を獲得した映画「悪人」の原作です。この映画で深津絵里さんは、主人公である殺人犯・清水祐一(妻夫木聡)と逃避行を演じる女性・光代を演じています。なお、映画は現在、全国レベルで公開中ですが、私は観ていません。

悪人(上) (朝日文庫)悪人(下) (朝日文庫)
深津絵里さんは、私のお気に入りの女優であり、その彼女が映画賞をとったのは喜ばしいことだと思っています。これにもかかわらず、公開された映画を今まで観ていなかったのは、「悪人」というタイトルに違和感を感じており、内容にも興味がなかったからです。
それでは、何故、映画の原作である小説を読んだかというと、時間を潰す必要が激しくあり、それならば、原作を読むことにより、「違和感」について決着しようと思ったからです。原作を読めば、「違和感」が、映画のプロモージョンの影響で受けたものであるかどうかがわかります。

昨日の土曜日には、移動時間と待ち時間が、合わせて5時間である用事がありました。小説「悪人」は、文庫本の上下合わせて550ページの分量がありましたので、暇つぶしに読むのにはよい作品でした。読み始めてみると、最後まで読み切るだけのモティベーションが湧く作品でした。舞台は九州であり、私が行ったことのある長崎市長崎県)、久留米市(福岡県)、佐賀市呼子(以上、長崎県)、人吉(熊本県)が、小説の舞台や、登場人物の出身地して描かれていたのも嬉しかったです。登場人物の話す九州の言葉も印象的でした。

「違和感」については、小説においても違和感を感じましたので、私の直感は正しかったです。なお、これは、私という人物が違和感を感じるということが正しいという意味であり、他の人にとってどうであるかという意味ではありません。


ストーリーの概要を説明することにします。登場人物を映画で演じた俳優も記載します。


主人公は、長崎市の土木作業員・清水祐一(妻夫木聡)です。彼は、携帯サイトで知り合った福岡市の保険外交員・石橋佳乃(満島ひかり)を殺してしまいます。石橋佳乃に脅されたので、清水祐一はやむなく石橋佳乃を殺してしまったのです。この事件を引き起こす要因になったのは、博多市内の学生・増尾圭吾 (岡田将生)でした。彼は、人の痛みのわからない人間です。しかし、石橋佳乃は、彼が湯布院にある旅館の息子であり、裕福であるという理由で、彼と付き合いたいと思っており、同僚には付き合っていると嘘を付いていました。
ヒロインは佐賀市内の紳士服販売店に務める馬込光代(深津絵里)です。携帯サイトで清水祐一と知りあった彼女は、清水祐一が殺人をした後に、彼と実際に会います。身体のつながりから始まった二人ですが、すぐに、恋に落ちます。そして、人を殺したと打ち明け、自首をすると言う清水祐一を馬込光代は押しとどめ、二人の逃避行が始まります。やがて、犯人は増尾圭吾ではなく、清水祐一であるということに辿りついた警察の追跡が始まります。


ネット上に出回っている作品の紹介(amazon など)は、以下の通りです。

保険外交員の女が殺害された。捜査線上に浮かぶ男。彼と出会ったもう一人の女。加害者と被害者、それぞれの家族たち。群像劇は、逃亡劇から純愛劇へ。なぜ、事件は起きたのか?なぜ、二人は逃げ続けるのか?そして、悪人とはいったい誰なのか。

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作者の意図は、この事件における悪人は殺人を犯した清水祐一であるが、彼は「悪人」ではないかもしれないし、彼を追い詰めた石橋佳乃、要因を作った増尾圭吾 、彼を逃亡に誘った馬込光代も「悪人」ではないかと、読者に考えさせることなのではないかと推測します。
わたしは、作者の意図はわかりますが、「悪人」って言葉は、いつの時代の概念かと思ってしまいます。ドラマ「水戸黄門」のような勧善懲悪ものの物語では、ほとんどの登場人物は善人と悪人とに分類されます。しかし、現実世界はそんなに単純ではなく、「水戸黄門」が高視聴率を誇っていた時代より、さらに複雑になっています。

現在の日本においては、殺人者には罪があり、逮捕されれば刑罰が適用されます。しかし、それは、犯罪を抑止するためのシステム(=法律)において、殺人者には刑罰が処せられると決められているからです。このシステムでは、清水祐一は犯罪者になります。しかし、石橋佳乃、増尾圭吾 、馬込光代はこのシステムにおいては、おそらく、犯罪者にはなりません(馬込光代は、本来は、犯人蔵匿罪?)。
彼らが犯罪者とされないのは、問題がないからではなく、処罰する規定がないからです。規定がない理由は、私は法律に詳しくないのでわかりません。抑止力として規定に入れる効果よりも、規定にいれることによるコストが高くなると判断されているのかもしれません。また、法律が作られた時点の価値観では、罪として問題にするほどのことではないとみなされていたのかもしれません。
とにかく言えることは、罪になるから悪いことであり、罪にならないから悪くないということではないということです。したがって、清水祐一は悪人だが‥‥、という作者の前提が成り立っていないと、私は思うのです。これが、作品のタイトルを「悪人」としたことに対して、私が感じた「違和感」です。


さて、上では『「悪人」って言葉は、いつの時代の概念かと思ってしまいます。』と書きましたが、現在の裁判において、被告が悪人であるかどうかの判断により、罪の軽重が変わってくるというのも事実です。被告が、自分が犯してしまった犯罪を反省したり、被害者に謝罪を表明した場合、罪は軽くなるようです。全くの悪人でないのならば、罪を軽くするということだと思います。小説の後日談があるとすれば、おそらく、清水祐一は、馬込光代のために悪人を装い、より重い罪に処せられると思います。そんなことをしたらば、自分を育ててくれた人達への社会的な制裁が加速するのですが...。
私は、被告が反省するかどうかなどは考慮せずに判決を出すことが妥当だと思っています。また、精神鑑定の結果、被告に責任能力がないから罪に問わないというのもやめたらいいと考えています。なお、被告の関係者や、刑を全うした被告に社会的な精細を加える人に対しては、厳しい罰を与えるべきだと考えています。


最後に、去年行われた最大の「悪」と私が思っていることについて述べます。それは、新型インフルエンザ騒動の時に、アメリカに行っていた生徒が新型インフルエンザにかかった洗足学園に抗議、非難、苦情の電話を入れた人達です。もちろん、この人達が罪に問われることはありません。しかし、洗足学園学園や関係者に、精神面を含めて大きな被害を与えたことは、確固とした現実です。
洗足学園に抗議をした人は、この種のことに知識がなかったのかもしれません。しかし、だからといって、許されることではないと思います。また、洗足学園が謝るしかない立場にあると考え、日頃のうっ積のはけ口をぶつけた人もいると思います。確実なことは、抗議を行った人の何割かの人達は、同じことを繰り返すということだと思います。なお、報道のためにヘリコプターを飛ばすなど、過剰に、また、扇情的に報道したマスコミに問題があることは、言うまでもありません。正確な情報を流し、問題が起きるのを防ぐのが本来の姿だと考えます。